Yuururiのブログ

ゆーるり、気まぐれブログ

当時、キャプテン翼が大流行していた。それでも、野球の方が人気があった。

やはり、ゴールデンタイムで巨人戦が放送されている影響が強いのだろう。自然に巨人ファンになっていた。

篠塚、吉村の華麗なバッティング、斎藤雅の抜群の制球力(全て低めの絶妙なコントロール)は見ていて、打たれる気がしなかった。今思えば、吉村は天才バッターだと思う。斎藤もえぐかった

 

当時のスタメン

 

1(左) 松本匡史
2(二) 篠塚利夫
3(中) クロマティ
4(三) 原辰徳
5(一) 中畑清
6(右) 吉村禎章
7(捕) 山倉和博
8(遊) 岡崎郁
9(投) 斎藤雅樹 (投) 西本聖

 

その他、記憶にあるのは満塁男、駒田、完全試合の槇原、桑田、江川などなど。

 

江川の試合はとにかくテンポが早かった。

とにかく、すぐ投げる。キャッチャーから返球来たら、すぐに投げる。

ストレートの伸びとキレがエグいから、お構いなし。 カーブと伸びるストレートをサクサク投げてた記憶がある。決め球は、浮き上がるストレート。

 

そんな、めちゃくちゃ強い巨人が全く打てないバケモノがいた。

新人ピッチャー伊藤智仁・・・エグい。

 

とにかく、打てなすぎて、連打はまず無理ゲー。2点とられたらゲーム終了。

ホームランの一発以外無理。見ていて、打てそうな気がしなかった。

 

大魔神・佐々木もエグい。9回に出てきたらゲーム終了。フォークが打てない。

 

記憶に残る試合は長嶋巨人の10.8決戦もあるが、パリーグ近鉄ダブルヘッダーの10.19試合。

日本シリーズの巨人逆転4連勝・

92、93年の日本シリーズ 西武(森)VSヤクルト・(野村)はとにかく面白かった。

 

高校野球はやまびこ打線・池田高校(水野)とPL学園(桑田・清原)。

 

これが野球の記憶である

 

 

 

小学生まで、歩いて20分程かかる。

寄り道しながら、通うには丁度良い距離だった。

お店も何もなく、住宅街と田んぼぐらいしかなかった。

とても活発で明るく元気な小学生だったので、人生で一番のモテ期だったが、本人は全く自覚出来ていなかった。

 

小学生では、ドッチボールやスーパーカー消しゴム、キン肉マン消しゴム、ビックマンシール、プロ野球チップスなどが流行した。 

 

キン肉マン消しゴム、通称キン消しは、ガチャガチャの商品で、当時は、夢中になって集めた。

 

駄菓子屋には、キン消しの偽物やホタテマンなど、当時、全く価値のない商品が沢山あった。

 

ビックマンシールは、コロコロコミックなどで紹介されて、全国的大ブームになり、ひとり3個までの個数制限されていた。1個30円で、入荷と同時に小学生の行列が出来ていた。

 

当時は、転売や大人の買い占めが無かった時代なので、比較的簡単に購入出来た。

 

ビックマンシールは、学校で大ブームになりすぎて、学年で全て没収される事態になった。各担任の先生が没収して、「卒業式に返す」と言って先生の机に隠された事を鮮明に覚えている。

 

小学生の学校生活は、ずっと何か流行して、楽しい毎日だった。

 

〜余談〜

 

当時は、週刊少年ジャンプの影響が凄かった。誰もが、ジャンプを見ていた。

幸い、我が家は、床屋なので、新聞2誌、週刊少年ジャンプ少年マガジンがあった。

物心ついた時(幼稚園)から、スポーツ新聞、ジャンプ、マガジンをくまなく全部読んでいたので、誰よりもスポーツと漫画には詳しかった。

 

ビックマンチョコは、1人3個制限で、1BOXに24個ぐらいあって、ヘッド(キラキラ)シールが2枚必ず入っていた。当時、配列がほぼ決まっていたので、新品BOXであれば、3個でヘッドが狙えた。9割近い確率だった。

 

小学校、卒業式の時に没収された、ビックマンシールは、担任が忘れていたので、最後まで返却されなかった。

 僕は隠し場所を知っていたので、卒業式の後、友達と2人で教室に最後まで残って、先生の机から自分の分だけ返して貰った。その後、小学6年生だったので、帰り道で出会った低学年の子に全部あげたのを覚えている。

 

キン肉マン消しゴムも、沢山持っていたが、全部、床屋に来た小さい子供に、母親が全部あげて、無くなっていた。

今あれば、かなりの価値になっていたと思う。あのパチモンのキン消しホタテマン、ビックマンシールが、とんでもない値段になる事など、当時は想像出来なかった。

 

山本家の間取り

 

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平家の一軒家で、とても変な間取りだ。

オレンジ①で、僕は布団を引いて寝る。ひとりだけ、21時に①で寝るのが習慣だ。

この和室も通路になって、タンスがある、落ち着かない。

親父の部屋へ行く為の通路になっている和室。

21時に布団が引かれて寝るだけの場所だ。

 

道路沿いに店。店と自宅は、通路でつながっている。

赤い線は、ふすまやドアなどの入り口。

赤い線のルートは親父がトイレに行くまでの道順。

(ほぼ全ての部屋を監視出来るルート)

 

親父の部屋は、和室と台所、トイレを結ぶルート以外のふすまや引き戸は開けてはいけない。暗黙の了解だ。

仕事中は、必ず玄関兼通路の真ん中を通って、トイレに行く。

夜は、必ず和室を通って、台所とトイレに行く。

 

☆無駄に広い玄関と板張りの通路が家の中心にある。

ここは、玄関兼、通路の部屋だ。意味がわからない。

☆店と自宅を繋ぐ部屋も意味がわからない部屋。

薄暗い洋室で、タンス等の物置の部屋になっている。

☆トイレが一番奥にある為、親父がトイレに行く度に、全ての部屋を監視出来る。

☆家族がトイレに行く度に、風呂場前を通るので、全く落ち着けない風呂場。

☆兄の部屋だけ完全個室で、押入れ付き。かなり広く、8畳〜10畳ぐらいある

☆親父の部屋が真ん中の和室にある。全てふすまなので、とても厄介。

☆台所・トイレ・店・親父の部屋の位置が悪くて、兄の部屋以外全て通路状態。常に監視される。

 

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山本家の夜のルーチン

〜親父のルーチン〜

バーバー山本の閉店時間は20時である。

20時閉店して、閉店作業と掃除を夫婦で行う。

20時30分迄に作業終了。

20時30分頃から一番風呂入浴。(必ず一番風呂)

21時までには夕食終了。

21時から、自室にてTV(映画)鑑賞、23時消灯である。

 

〜僕のルーチン〜

18時〜20時40分までに食事。

バーバー山本(おかん)の忙しさで、晩ご飯の時間が決まる。18時〜20時30分までのおかんの暇な時に、夜ご飯が提供される。

兄と僕、2人で晩ご飯を食べるのが習慣だ。

入浴は、順番がある。

一番風呂は親父。2番目に兄、3番目が僕、最後はおかんが入浴する。

大体20時50分〜21時までが僕の入浴時間だ。

21時には、僕は布団で寝ないといけない。

21時消灯が決まりだ。

 

兄は、21時以降、何時に寝ていたかは、知らない。

兄には一人部屋があったので、21時以降の行動を僕は知る余地はなかった。

 

僕には、部屋がなかった。 寝る場所は人が行き来する和室で、布団を引いて寝ていた。

 

間取りが変な家なので、僕には居場所がなかった。

 

〜余談〜

TV・スポーツ・アニメ・ドリフや俺たちひょうきん族は少し見る事は出来た。21時からの映画、TV(とんねるず、ドラマ)は一切見る事は出来なかった。

 

 

 

 

山本家、朝のルーチン

僕と兄は、いつも朝7時に起床する。

早くても、遅くても駄目だ。絶対に7時じゃないと親父に怒られるからだ。

以前、6時30分に起きて親父に「お母さんに早起きをさせるな」と怒られたので、7時まで布団から出てはいけない暗黙のルールがあった。

 

親父は、必ず7時に起床して、シロ(犬)の散歩をする。

帰宅後に、バーバー山本の開店準備と身支度。

髭剃りをして、カールアイパー(髪型)のセットをして、朝8時から食事する。

このルーチンは、365日継続される。定休日(月曜日)でも関係はない。

 

僕と兄は、必ず7時50分までに食事をして学校に行かなければならない。

山本家の朝食は、親父と食事が被らないようにする、暗黙のルールがあった。

母親はいつも、「お父さんが来るから、急いで」と言っていた。

 

・・・続く

 

余談・・・毎朝、徳光さん司会の「ズームイン朝」をいつも見ていた。ウイッキーさんの事は忘れない。

床屋なので、朝日新聞と日刊スポーツ新聞を毎朝見ていた。

ズームイン朝と日刊スポーツのおかげで、大の巨人ファンだった。

床屋に出す新聞なので、飲み物こぼすと、めちゃくちゃ怒られた記憶がある。

 

 

小学生になった秋。

僕は小さい男の子だった。保護者から、いつも「可愛い、あの子、可愛い」と言われていた。可愛い??意味がわからなかった。

 

小学生時代はいつも一番前。身長順に並ぶ事が多いので、体育の時や全校集会、目立つのが、すごく嫌だった。

 

小学生になって、山本家にルールがある事に気づいてきた。

 

山本家ルール

 

親父の「うちは、よそはよそ」これは絶対条件。親父の意見は絶対服従

 

3歳年上の兄にも絶対服従

おかんにも、「お父さんが・・・」と言う、決めゼリフがある為、何も言えなくなる。

 

僕は、家庭内では、一番下で絶対服従するポジション。意見は何も言えない、発言出来ない立場であった。

 

僕は、のどかな田園が広がり、駅も大型ショッピングセンターもない小さな田舎町で育った。

森山商店という、小さな駄菓子屋が僕の御用達だ。

僕(秋)の家は、散髪屋。自宅=床屋。

平家の一軒家で、道路沿いに床屋、床屋の横につながって自宅がある。

朝の9時から、赤・白・青の三色の縞模様のサインポールがクルクルと回転する、親父(貴男)がサインポールの電源を入れる、これが1日のはじまりだ。

 

僕は保育園までバス🚌に乗って行く。保育園は楽しくて、先生も優しくて、何不自由なかった。バスの中では、友達とあやとりをした。保育園では、鬼ごっこ等、毎日元気いっぱいに駆け回った。

唯一悔やまれるのは、芋掘りの時に、紅白帽子を忘れて、一人だけ通学帽子で記念写真を撮った事だ。

バスに乗って、家に帰ると、いつも家族がいる。

床屋なので、終日、365日、24時間、毎日、毎日、親父(貴男)、おかん(美花)が家にいる。これが、日常だった。

ごくごく、普通に卒園して、小学生になった。

 

〜続く

 

余談)

仲良く、あやとりをしていた友達は、僕とは校区外だったが、後に金髪のリーゼントのヤンキー中学生になっていた